ポタリポタリと地に斑点を描くどす黒い血液が、今なら不気味に思えるな、と笑いがこみ上げる。

誰を殺そうと、どこで殺そうと、血はただ血でしかなく。

人に通う生命の証とも、思えずに。

どのように噴出させれば息絶えるのか。

どのように切り裂けば飛沫を浴びずにすむのか。

どのように滲ませれば苦痛が増すのか。

そんなことばかりを考えていた。

己の肌から溢れ出るそれを視界に収めるのは、何年ぶりなのだろう。

……いや、何年ぶり、と言えるほど驕るべきではないか。

痙攣を思わせる震えが喉の奥底から生まれ出で、光も拒む深淵の闇を孕んで身体を満たす。

暗き狂気。

身を奮わせて地を踏みしめる足先がわずかに開かれる。

用意された廃墟に程近き聖堂の地下。

月光も届かぬ地の底で、二つの剣は死闘を繰り広げていた。

決闘が二日目に突入するも、未だ誰もが疑わぬ剣帝の勝利。

期待に満ちた遠き羨望を一身に受けながらも、当の剣帝だけが、対戦相手の少年を賛美していた。

どれほど傷を刻もうと、貪欲に貪欲を重ねて立ち上がり、牙を剥く獰猛な鮫。

腹、胸、腕、腿、身体のあらゆる箇所から血を吹きながらも、瞳のぎらつきが耐えることはない。

なんと若々しくも憎らしい、猛き欲望なのかと、テュールはそっとほくそ笑んだ。



テュールは事前に、九代目からひとつ制約を課せられていた。



『スペルビ・スクアーロを殺してはならない』と。



今回の事態の最終目的は、スペルビ・スクアーロのヴァリアー入隊を確定させることである。

当の少年が死んでしまっては話にならない。

完膚なきまでに叩きのめすことは許されても、殺すに到ってはならないのだ。

これは、テュールにとって大いなる枷となり、剣筋を鈍らせる結果を生んだ。

無意識に急所を狙う腕を制御し、意識を緩め、『殺さず』を貫かねばならない。

普段、根こそぎ奪いつくすことだけを目的としてきた己を偽り、傷つけるまでに止めざるをえない剣先は鋭さを削られ、迷いをちらつかせる。

それでも、テュールの強さは並の器で測れるものではなかった。

テュールを始めとするボンゴレ一同の予想を、軽々と上回ってみせた少年の強さが、力の優劣を五分に仕立て上げたのだ。

(あれは、俺をただ打ち負かしたいだけではないな……)

澱みなき刃の猛攻。

的確に絞られ、舐めるように這う照準。

急所を突かんと繰り出される剣技。

血潮に塗れてなお地を蹴る俊敏な脚。

(あいつは……俺を殺すために戦っている)

自然と、口端が吊り上る。

かち合わせた刃を押しやり、飛ぶように距離を開けたまま、今は互いに闇へと身を潜ませていた。

殺気をも殺し、息を整えながら、相手が隙を見せる瞬間を狙って。

聖堂内には、壁際にぽつりぽつりと燭台が置かれ、頼りない灯火を揺らしている。

が、それで室内全てが照らされるほど甘い広さではなかった。

幾本もの柱が天を支え、死を臭わせる地面は石畳で綴られている。

何とも知れぬ瓦礫が足場を波打たせ、かくれんぼにはもってこいだと笑いを誘った。

時間の感覚をも奪う闇と濁った空気。

わずかに湿り気を宿す匂いに、失った左手が疼く。

彼の少年と何十、何百と刃を打ち合わせ、血を滴らせてわかったことがいくつかあった。

貪欲すぎる瞳。

青さを滲ませる、勢いに走った技量。

そして……奴も左手が無い、ということ。

そのような情報はまったく知らされていなかった。

九代目から渡されていた書類にもデータにもなかったし、隠される理由もない。

左手がない、などという事実を知らなかったとて、負うリスクなど微々たるものだからだ。

少年の勝利を願っての秘匿、というのならもっと有効な手段がいくらでもあるはず。

と、いうことから察するに、少年が左手を失ったのはごくごく最近だったのではないだろうか。

たとえば……この決闘のためだけに、少年が自ら絶ったのでは、と……。



おもしろい。



非常に、おもしろいではないか。

それで、俺を理解したつもりか。

同じ舞台に立ったつもりか。

なんの気兼ねもなく、負い目もなく、イーブンになったつもりなのか。

湧き上がる笑声は、いよいよ心中に収めておくだけにしては大きくなり過ぎつつあった。

加えてもうひとつ理解した現実。

このまま手を抜いていては、いつまでたっても収拾がつかないというもどかしさ、だ。

(……さて、どうするか)

義手の手首を軽く振り、間接の具合を確かめる。

ざり、とわざと音を立てて地面を踏みつければ、幾らか距離を置いた地点で少年の気配が揺らいだ。

空気が波紋を広げるのを感覚で把握しながら、ふと身体の力を抜く。

餌を、撒いてやろう。

さあ存分に、この隙を突くがいい。

かかってこなければ腑抜け。

かかってきたとすれば間抜け。

ひっそりと。

捕食者のように。

唇に薄く笑みを敷きながら、テュールはだらりと腕を垂らした。








「綱吉様、あまり身を乗り出されては危ないですよ」

「………」

滞在している部屋で暇を持て余していた綱吉を、ホテル内だけという制限を付けつつ散歩に連れ出したオレガノは、むっと唇を尖らせる様子に苦笑を漏らした。

二階のカフェのテラス席から外をぼんやりと眺めていた綱吉が、柵の隙間へと身をすべりこませようとしたからだ。

所詮二階、とはいえ、落ちれば相当の傷を負う。

テュールの留守中、綱吉を預かる身としては避けたい災厄だ。

もれなく剣帝、九代目、親方様の三方から激しいお叱りを受けるに決まっているし、自身としても綱吉の柔肌に血が滲むところなど見たくはない。

柵は丁度綱吉の身体が入るか入らないかというぎりぎりの幅でもって等間隔を保っていた。

大人の落下は優に防げども、子供となれば微妙な加減である。

綱吉は柵の間近へ腰を降ろし、ぶらぶらと足を外に投げ出した。

「……てゅーる、おそい」

「そうですね…」

苦戦している、という情報は、オレガノの耳にも届いている。

『殺さず』を仰せつかっている時点で、剣帝が本領を発揮できないだろうことは予想がついていた。

かといって、彼の強さ自体が揺らぐわけではないことも。

時間を食ったとしても、彼はきっと勝利してみせるのだ。

期待でも羨望でもなく、当然としての認識がボンゴレ全体に立ちこめていた。

そして今まで一度たりともその当然が覆されたことなどないように……。

「……あ、大分陽が暮れてきましたね。身体が冷えるといけませんから部屋に戻りましょうか、綱吉さ……」

「てゅー、る?」

ぱち、とひとつ放たれた大きな瞬きが、綱吉の表情を無に変化させた。

声をかけると共に席を立ったオレガノの言に対する反応ではないだろう。

現に、空を見上げた綱吉の視点はどこにも合っていない。

ぴくりと指を曲げ、柵の表面に手を滑らせ、立ち上がった綱吉の身は……。

眼前ではないどこかを捕らえた、曇る眼で、力強く。

「てゅーる!!」

空を掴み取らんと腕を伸ばし、柵を越えようとしていた。

ぐっと、前方にかかる全体重。

「綱吉様!!」

斜めに傾ぐ綱吉の上体。

重力に従おうとする身体めがけて、オレガノの手が伸ばされるものの、衣服の片隅すら掴むことのないままに。

「綱吉様ぁあ!!」

悲鳴のように響く名が、茜に染まる夕空へと溶けていった。







「……ツナ?」

後頭部を針で刺されたような錯覚と共に、奇妙な予感が脳髄を貫く。

自然と口をついて出た名に肌が震えて。

――なんだ?

「う゛お゛ぉい!余所見とは余裕だなぁ!!」

無粋な叫びに沈みかけていた思考が引き寄せられ、咄嗟に腕が動いた。

背後からの一閃。

そうだった。俺はまだ、戦闘の最中で……。

かろうじて防ぐことの出来た刃が眼前でギリギリと軋み出す。

純粋な力の鬩ぎで負けるわけにはいかない。

いかに出来る剣士といえど、少年を相手に鍔迫り合いで押し負けるのは剣帝の名折れだ。

が、その間にもずっと、予感めいた痛みが意識を引っ張っていこうとする。

何か。

綱吉に、何かがあったのだ。

それは漠然とした感覚ではなく、純然たる確証を伴った現実。

綱吉に何かあればテュールはすぐさま感じ取ることが出来るのだから。

……名を、呼ばれたような気がした。

綱吉が、俺を呼んでいる。

どうした。

何があった。

もしくは――これから起こる何かの予兆か。

指先にこもる力と、掌を滑る汗に歯を食いしばりながら、滾る瞳を引き絞る。

絡みあう眼光。

見え隠れする獰猛な息遣いに、俺はふと目を閉じた。

このままでは、戦闘が長引くだけなのだ。

体力的に劣っているということはなく、持久戦に持ち込んだところで負ける気はさらさらない。

だが、気にかかるのは綱吉だ。

……早々に、ケリをつけなくては。

掲げられた『殺さず』。

(……もしかしたら、初の命令違反になるかも、な)

鼻から吸い、口から吐いた空気に、眼前のガキが身構える。

肩と肘のバネを駆使して刃を弾けば、わずかによろめきながらも体勢を整えるスピードは並よりも格段に速い。

いいだろう。

初めから無理な話だったのだ。

俺が『殺さないように戦う』などと。

「運がよけりゃ……死なないだろ」

意識に絡めていた抑制の紐を解き放つ。

決めてやる。

ふう、と大きく肺の中に詰まっていた息を吐き出して、呼吸を止める。

ぐぐっと内臓が下がるような感覚に膝を曲げ、身体全体の筋肉に伸縮を命じて。

刃を反して構えを正した少年が、瓦礫を蹴って駆け出した。

抑制も制約も制限もない、少年も望んでいるのだろう、真剣勝負。

この一撃だけ、全力をもって相手をしてやろう。

沈み込んだ身に伝達される合図。



少年が振りかぶると同時に、テュールは救い上げるような剣戟で標的の首筋を捉えていた。







『てゅーる!』







「なっ……!」

脳みそを直接叩かれるような衝撃と共に、綱吉の声が意識を引っ張る。

まるで、それ以上進んではならないと引き止めるように。

だが、最後と決めてかかった技はすでに発動していた。

止めようがない。

スピードを増す力のベクトルを、今更曲げることもできず。

刃は何の問題もなく、剣を大きく振りかぶった少年――スクアーロの首筋へと叩きつけられようとしていた。



瞬間。







スクアーロの口元が歪み、歯を剥いて、弧を描く。



それはそれは、楽しげに。







「死ねぇ!」







スクアーロの嘲笑混じりの雄叫びが耳に入るとほぼ同時に、無数の熱の塊がテュールの身体を貫いていた。











「まったく。こんなところで油断とは、お前らしくないぞオレガノ」

「あなた……ターメリック!?」

どうしてここに、と目を見開くオレガノは、脱力して床にへたりこんでいた。

見慣れた巨躯。聴きなれた声音。そして……。

ターメリックはオレガノと志を同じくするボンゴレ門外顧問の人間だった。

よお、と左手を上げて挨拶を投げかけた彼の傍らには、右腕に絡めとった小さな身体がぶら下がっている。

綱吉だ。

「綱吉、さま……よかった…」

「おいおい。よくはないだろう、よくは」

お前の不注意が綱吉様を死に追いやるところだったのだから、と厳しく目を細めるターメリックは、ケガがないかをざっと確かめながら綱吉を地面へと降ろした。

「どうして、ここに?」

「親方様の命で、護衛に来たんだ。……嫌な予感がすると仰られてな」

「嫌な予感……」

「そうして見事、予感的中だったというわけだ」

オレガノと綱吉が散歩に出た後、入れ違いで到着したターメリックは、気分転換を堪能する綱吉の気分を削いでしまわないよう、こっそりと護衛についたのだ。

部屋に戻ってから挨拶を済まそうと考えて。

とはいえ同僚であるオレガノには気づかれるであろうと身構えていたのに、その様子はなく。

どうしたものか、と呆れていたところで綱吉が柵の向こうへと手を伸ばしたのだった。

オレガノより早く気がついたために、伸ばした腕はなんとか落ちゆく綱吉を捕らえて……。

「ごめんなさい。ありがとうターメリック。助かったわ」

「以後気をつけろ。俺もサポートする……が、疲れでも溜まってるのか?」

「うーん……そうなのかしら。自覚はないのだけれど…」

「尚更タチが悪いな。俺が綱吉様を見てるから、少し休んだらどうだ」

「そういうわけにもいかないわ。それに―――え?綱吉様?」

「!?」

オレガノは、左右に素早く視線を振りながら辺りを見回す。

同様に、警戒の姿勢をとったターメリックもきょろきょろと周囲を探った。

が、求めた姿はどこにも見つけられずに。

いつの間にか、忽然と。

庇護対象は、その場から消失していた。

「ど、どこへ!?さっきまで、確かにここに…!」

「っ!とにかく、他の護衛にも連絡を!…攫われた可能性がある」

「ええ。わかったわ」

「それから、九代目にも」

眉間に皺を寄せたターメリックに頷きながら、オレガノは足早にカフェを後にした。

携帯を取り出し、人気の無い場所を探しつつ、綱吉の名を呼んで探しながら。

「消えた、だと…?一体どこへ……」

残されたターメリックは表情に険しさを宿しながら、綱吉の姿を見つけんと目を凝らす。

攫われた可能性がある、とは言ったもののそれは限りなく低い確率だ。

互いに気を逸らしていたとはいえ、半歩ほどしか離れていなかった綱吉を連れ去られるほどの間抜けではない。

気配は感じていた。

確かに、そこにいたのだ。

けれど、ふと視線をやった瞬間に……全てが消失してしまった。

まるで、空間ごとごっそり、削り取られてしまったかのように。

「ありえない……ありえない、が………もしかすれば……」

たったひとつ。

ありえない事態を引き起こす要因に心当たりがあった。

テュール。

テュール、お前なのか。



すっと息を呑みながら、ターメリックは視線を上げる。

遠く、北の方向。

チェルベッロが用意した、誰も寄り付かぬ郊外の教会。



「まさか、お前が………呼んだのか?」



夕闇が地平線を駆け上がり始める世界で、ターメリックは愕然と北へ問いかけていた。

答えの返らぬ、問いかけを。
































この辺りはあっさりいきたいのですが…思いのほか長くなってしまいました…υ